『今昔物語集』 <巻第十六 隠形の男、六角堂の観音の助けに依りて身を顕はす語 第三十二>
（京で暮らす男が、ある夜、知人の家を訪れた帰りに鬼の行列を見つけ、橋の下に隠れたものの、鬼に気づかれて恐れおののく場面から始まる。）
男、「今は限りなりけり」と思ひてある程に、一人の鬼、走り来たりて、男をひかへてゐて上げぬ。鬼どもの言はく、「この男、重き咎あるべき者にもあらず。許してよ」と言ひて、鬼、四五人ばかりして男に唾を吐きかけつつ皆過ぎぬ。
その後、男、殺されずなりぬることを喜びて、心地違ひ頭痛けれども、念じて、「とく家に行きて、ありつる様をも妻に語らむ」と思ひて、急ぎ行きて家に入りたるに、妻も子も皆、男を見れども物も言ひかけず。また、男、物言ひかくれども、妻子、答へもせず。しかれば、男、「あさまし」と思ひて近く寄りたれども、傍らに人あれどもありとも思はず。その時に、男、心得るやう、「早う、鬼どもの我に唾を吐きかけつるによりて、我が身の隠れにけるにこそありけれ」と思ふに、悲しきこと限りなし。我は人見ること元のごとし。また、人の言ふことをも障りなく聞く。人は我が形をも見ず、声をも聞かず。しかれば、人の置きたる物を取りて食へども、人これを知らず。かやうにて夜も明けぬれば、妻子は、我を、「夜前、人に殺されにけるなんめり」と言ひて、嘆き合ひたること限りなし。
さて、日ごろを経るに、せむ方なし。しかれば、男、(注１)六角堂に参り籠もりて、「観音、我を助け給へ。年ごろ頼みをかけ奉りて参り候ひつる験には、元のごとく我が身を顕し給へ」と祈念して、籠もりたる人の食ふ物や(注２)金鼓の米などを取り食ひてあれども、傍らなる人、知ることなし。かくて(注３)二七日ばかりにもなりぬるに、夜寝たるに、暁方の夢に、(注４)御帳の辺、尊げなる僧出でて、男の傍らに立ちて、告げてのたまはく、「汝、すみやかに、朝ここより罷り出でむに、初めて会へらむ者の言はむことに従ふべし」と。かく見る程に夢覚めぬ。
夜明けぬれば、罷り出づるに、門のもとに(注５)牛飼の童のいと恐ろしげなる、大きなる牛を引きて会ひたり。男を見て言はく、「いざ、かの主、我が供に」と。男、これを聞くに、「我が身は顕れにけり」と思ふに、うれしくて、喜びながら夢を頼みて童の供に行くに、西ざまに十町ばかり行きて、大きなる(注６)棟門あり。門閉ぢて開かねば、牛飼、牛をば門に結びて、扉の迫の人通るべくもなきより入るとて、男を引きて、「汝もともに入れ」と言へば、男、「いかでかこの迫よりは入らむ」と言ふを、童、「ただ入れ」とて男の手を取りて引き入るれば、男もともに入りぬ。見れば、家の内大きにて、人、極めて多かり。
童、男を具して(注７)板敷きに上りて、内へただ入りに入るに、いかにと言ふ人あへてなし。はるかに奥の方に入りて見れば、姫君、病に悩み煩ひて臥したり。(注８)跡・枕に女房たち居並みてこれをあつかふ。童、そこに男をゐて行きて、小さき槌を取らせて、この煩ふ姫君の傍らに据ゑて、頭を打たせ腰を打たす。その時に、姫君、頭を立てて病みまどふこと限りなし。しかれば、父母、「この病、今は限りなんめり」と言ひて泣き合ひたり。見れば、誦経を行ひ、また、やむごとなき(注９)験者を請じに遣はすめり。しばしばかりありて、験者来たり。病者の傍らに近く居て、(注10)心経を読みて祈るに、この男、尊きこと限りなし、身の毛いよたちて、そぞろ寒きやうにおぼゆ。
しかる間、この牛飼の童、この僧をうち見るままに、ただ逃げに逃げて外ざまに去りぬ。僧は(注11)不動の火界の呪を読みて、病者を加持する時に、男の着る物に火付きぬ。ただ焼けに焼くれば、男、声を上げて叫ぶ。しかれば、男、真顕になりぬ。その時に、家の人、姫君の父母より始めて女房ども見れば、いといやしげなる男、病者の傍らに居たり。あさましくて、まづ男を捕へて引き出だしつ。「こはいかなることぞ」と問へば、男、事のあり様をありのままに初めより語る。人皆これを聞きて、「稀有なり」と思ふ。しかる間、男、顕れぬれば、病者、掻きのごふやうに癒えぬ。しかれば、一家、喜び合へること限りなし。
その時に、験者の言はく、「この男、咎あるべき者にもあらず。六角堂の観音の利益を蒙れる者なり。しかれば、すみやかに許さるべし」と言ひければ、追ひ逃がしてけり。しかれば、男、家に行きて、事のあり様を語りければ、妻、「あさまし」と思ひながら喜びけり。
かの牛飼は神の(注12)眷属にてなむありける。人の語らひによりてこの姫君に憑きて悩ましけるなりけり。
注１ 六角堂＝京にある、観音信仰で有名な寺。
注２ 金鼓の米＝寺に寄付された米。
注３ 二十七日＝十四日間。
注４ 御帳＝観音像の周りに垂らしてある布。
注５ 牛飼の童＝牛車の牛を引いたり、その牛の世話をしたりする者。「童」とあるが、必ずしも子どもとは限らない。
注６ 棟門＝門の一種。身分の高い人の屋敷に設けられることが多い。
注７ 板敷き＝建物の外側にある板張りの場所。
注８ 跡・枕＝姫君の足元と枕元。
注９ 験者＝加持祈祷を行う僧。
注10 心経＝『般若心経』という経典のこと。
注11 不動の火界の呪＝不動明王の力によって災厄をはらう呪文。
注12 眷属＝従者。
注13 人の語らひ＝誰かの頼み。