上田秋成「春雨物語」<樊噲>
この後は心改まりて、兄が後に立ちて木樵り柴荷ひ帰りて親の心をとるほどに、大力なれば兄とは刈りまさり銭多に換ふるを、母と嫁とは褒めごとして喜ぶ。年も暮れぬ。いつの年よりは、大蔵がかせぎするに銭三十貫文を積みて、「此の年良し」と父も兄も快くいふに、母と嫁とは「まことに」とて大蔵に布子ひとへ新しく調じて着す。
年返りて春ののどかなるに、又いつもの宿に遊びて博奕始め、負けたりしかば銭請はれて、さすがに心後れたれば一夜二夜はえ行かず、母にいふ。「春の御敬ひに山に登らん。友達が詣づるに」といひて銭乞ふ。「早く帰れ。申傾かば恐ろし」とて蔵に行く。後につきて「いくらも給へ」と乞ふ。「お山に詣づとて多くは何する。是ばかりを」とて櫃のふた明けてつかみ出で、乱れたるが百文にあまりぬべし。「持て行け」と櫃のふたする内を見れば、からげし銭二十貫文あり。母にいふ。「春毎の遊びして銭負けたり。友だちが償へとて度々責るに、其の銭しばし給へ。山かせぎして本の如く積むべし。明日よりは山に入るよ」とて乞ふ面憎し。「さてもさても心改めしかと思へば、博奕やめぬよ。目代殿より春ごとに戒め給ふいたづら事なり。神も憎ませ給はん。此の銭は兄が入れおきたるぞ。許さねば手は触れじ」とて櫃の鍵ささんとす。例の心より母をとらへて動かせず、「声立てな。父が昼寝覚むるぞ」とて片手にふた開きて二十貫文つかみ出だして、母は櫃の中に押しこめて、銭肩に置きてゆらめき出づ。
兄嫁見て、「其の銭いづこへ持ち行き給ふよ。男の数へて入れおきたるなり。父目覚まし給へ。又いたづら心の起こりしぞ」とておらび声していふ。父おどろきて、「おのれ盗人め、許さじ」とて杖取りて庭におり、うしろより丁と打つ。打たれても骨堅ければあざ笑ひて門に出づ。「憎し憎し」とて追ひしけど、兄は韋駄天走りして逃げ行く。